かつん。ふとした物音にバルコニーを見やれば、小石が二、三投げ込まれていた。
カーテンを開けて外を見れば、いつかのような軍服ではなく、シワ一つないエプロンドレスに身を包んだ少女が庭にぽつんと立っている。
月明かりのした、彼女自身が光を発しているかと見紛うような白い肌と淡い色の髪が浮き上がって見える。
次の小石を手にしていた彼女は、バルコニーに出てきた自分を認めると、ほころぶ花のような笑顔をみせた。
「プロイセン」
彼女の唇がそう動く。
どうやってここに? 何で彼女が? いくつもの問いが浮かんでは消え、最後に一つの確信が頭に残った。
伝えなくては。伝えなくてはいけない事がある。
「好きだ」
つっかえて今まで一度も言えたためしのなかったその言葉は、夢の中では自然と口からこぼれ出た。
それほど大きな声では無かったが、"分かっている"という風に彼女はこくりと一つ頷き、そしてだらりと腕に下げていたフライパンを軽々と振りかぶった。川のせせらぎのような涼やかな声が。
「滅びなさい」
「夢でもかーっ!!! 夢でもこうなるのかーっ!!!!!」
そうして、プロイセンは叫び声を上げながら目を覚ました。夜中である。
ぜいぜいと荒い息をして、それからプロイセンはがくりと肩を落とした。
「何やってんだ俺は……」
「そのとおりよ。後一秒じっとしてくれてれば、一撃で仕留められたのに」
諦めと自嘲をこめて呟くと、先ほど夢の中で聞こえたのと同じ声がころりと続いた。ああ、まだ自分は夢のなかにいるのだろうか。
それとも、とうとう幻聴が聞こえるようになってしまったのだろうか。
もう一度寝なおそう、そう思って布団の裾を軽く直して枕を見ると、底には中の綿を盛大に散らして、無残に陥没しているさっきまで枕だったものと、見覚えのあるフライパンがあった。
その柄をつかんでいる白い腕。それをずっとたどっていくと、先ほど夢に見た緑の瞳と目が合った。
「うわあああああああ!!!!」
「気が付くのが遅い!」
「な、お、おお、お前、何で」
ベッドから転がり落ちたままの姿勢でプロイセンはこれ以上うろたえられないほどうろたえながら何とかそれだけ言った。
対するハンガリーは、ぷいと横を向いてクールに言った。
「何って、あなたを滅ぼしに来たのよ。皆オーストリアさんをよってたかっていじめて……許さない」
どうしてここにいるのかはわかった。どうやってかは知らないし知りたくもないが。
しかし、いつから?
真っ赤になって真っ青になって、それからもう一度真っ赤になってプロイセンは視線を心のままに泳がせつつ言った。唇が震える。
「…………聞いたのか」
「何をよ」
寝言とか。寝言とか寝言とか寝言とか。聞かれてや、しないだろうか。
決死の覚悟で聞いたのに、こたえるハンガリーは素っ気ない。それに少しだけ安堵して、プロイセンはほうと息を吐いてうつむいた。
「いや、なんでもない」
今日の夢はまずかった。いや、良い夢だったがタイミング的には最悪とも言える。
少しほっとしたとはいえ、予想外の出来事にプロイセンの心臓はこれ以上ないほどの早鐘を打っている。今にもとまってしまいそうだ。
戦闘の途中でも、ここまで冷や汗をかいた事は無かっただろう。
そんなプロイセンの心中を知ってか知らずか、ハンガリーはふあと一つ行儀悪くあくびをした。
「あーあ。夜襲は失敗しちゃったし、今日はもう帰ろうかな。オーストリアさんには何も言わないで出てきちゃったもの」
明日の朝ごはんの仕込みもしなきゃ。勝手な事を呟きながら、ハンガリーはそのままバルコニーの方に向かう。
家主であるプロイセンの事を振り返りもせずに、ハンガリーは腰の高さほどあるバルコニーのてすりに手をかけた。そこまできてようやく、プロイセンははっとして叫んだ。
「ま、まて、ここは二階だぞ!」
「ここから来たんだもの、帰れるわよ」
まさかとは思っていたが、とプロイセンは再び青ざめた。よいしょ、と自分の体を持ち上げるハンガリーの姿に、今度は心臓が止まりそうなほど縮む。
「待て、帰るなら正面から……」
手をのばすが届くはずもなく、亜麻色の髪を残像にしてハンガリーは音もなく石の柵の向こうへ消えた。勢い良く立ち上がると、プロイセンはどたばたとバルコニーに飛び出し外を見た。勢いをつけすぎ、手すりに腰をぶつけてつんのめる。
ぴしり。その額に小さな衝撃がはしり、プロイセンははっと手をやった。小石だ。
バルコニーから下を見れば、白い人影が月明かりの下に浮かんでいた。かすかなデジャ・ヴュに頭が眩む。
「次は覚悟してて」口だけを動かしてハンガリーは言い、身を翻すと今度こそもう振り返らなかった。愛用のフライパンを抱え、確かな足取りで彼女と彼女の愛する国に帰って行く。
ひりひりする額を押さえて、消えて行く小さな後ろ姿に、プロイセンは口だけを動かしてこっそりともう一度だけ呟いた。
「好きだ」
元々白いほおをリンゴのように赤くしながら、ハンガリーは馬を駆っていた。その目はキリリと前を見つめているようで、実際の所は上の空だった。
「あんな事、突然言うんだから」
あの声色には聞き覚えがあった。苦しい片思いをしているものにだけ口に出来て、理解できるその表情。
「手元、狂っちゃったじゃない」
あれを聞いてしまったからには、今夜ばかりはもう彼のことを憎めない。
不覚にも心がはねたその理由は、そういうこと、に、しておいた。