七年戦争と外交革命とマリーアントワネットの話がちょっと出てきますので注意。




「ハンガリー、出てきなさい。ハンガリー?」
 嫌です、と口に出せば扉の向こうから軽いため息。その彼の表情がどんな風になっているのか、ぽんと頭のうらに浮かぶ。ずっと見てたから分かる。

 あたしはずっとあの人に頼られたかった。
 隣を一緒に歩いたり、みつめてもらったり、大切にされたいって思わないわけじゃない。でもそんなの無理だって最初から分かってたから、せめて力になりたかった。
 ねえ、でも結局かなわなかったんだ。あたしの力じゃどうしようもない事が多すぎる。
 あの人はよってたかっていじめられて、大事な物も奪われて、支えになってくれる人もいなかった。あたしじゃ、なれなかった。

 それで今、あの人は。

「いいんです、あああた、わ、私の事はほ、放っておいて下さい……」
 つい元の口調に戻ってしまいそうになる。それを無理やり手でおさえて、あたしはその場にへたり込んだ。扉の正面、重石にあたし。彼に人一人を押しのけて扉を開けられるだけの腕力はない、と、思う。だから 大丈夫だ。

「良くありませんよ。あなたにへそを曲げられては私はどうしていいかわからなくなる」
 むこうからちょっと不機嫌なあの人の声が聞こえる。こつん、と扉を叩く音。
 がたがたと扉を押しのけようとなんかしない、どこまでも優しい物腰。
 そうだ、彼が無理やり扉を開けようなんてはしたないまねをするはずない。だって彼はどこまでも理想的な人、なのだ。紳士だ紳士だと祭り上げられているへっぴり腰のまゆげヤロウ……じゃなかった、イギリスなんかよりもずっと。

「へそなんか曲げてません、でも、だめなんです」
「何が駄目なものですか。そんなに私の顔が見たくないんですか」
 そんな事があるもんか! 叫びたくなるけど、ああ、駄目だ。顔がにやけてしまっている。
 大好きなあの人に構われている、心配されているってそれだけでほっぺたが緩むのだ。

 でも、現実はそんなに甘くなんてない。

 あたしの、この膝を抱いた両の手のひらは傷だらけのマメだらけ。髪はぼさぼさ、あちこちに包帯。
 喧嘩にはある程度自信があった。助けてあげられると思った。ようやく力になれるかと思ったのだ。大好きな、あの人のために。
 でも結局喧嘩は負けっぱなし。大事なところは取られっぱなしで憎いあんちくしょうは高笑い。
 味方をしてくれる人もうんとうんと少なくなって、あたしだけは味方でいてあげたいのに、どうしても国力がおぼつかない。

 だから、オーストリアさんは、フランスさんのところにお嫁に行くんだという。
 ハプスブルグ家はずっとフランス王家と対立してたけど、もうそんなこと言ってられなくなったから、 婚姻関係を結んでこれからは仲良くするんだという。
 女性を主に持つことでなめられていてはこれから先が思いやられる。女だろうが何だろうが国を抱えた一国の主、軽んじていては痛い目をみるという事をプロイセンだけではなく、周辺諸国一体に示さなければならない。心強い味方が、肩を並べられる同盟国が必要なのだ。

 心臓からすっと体が冷える。現実が目の前にぶら下げられる。
 あたしの顔がずどーん、と悲壮な顔になったのが分かる。だって窓にうつるんだもの。心を込めて磨いたオーストリアさんの部屋の。


 ……オーストリアさんの、部屋の。



 あれ。確かこの部屋、外に向けて開くドアじゃ無かった、かな。


 ガチャリと扉が開く音がして、頭を乗せていた後ろの壁がふっと消える。膝を抱えて後ろに体重を預けていたあたしは思いきり後ろに転がってしまって、ごつんと何か固いものにぶつかった。はあ、とため息が降ってくる。
「床に座りこむなんてはしたないまねはお止めなさい、ハンガリー」
「うわ、お、オーストリアひゃん!!」
「ひゃん?」

 さん、とかろうじて言いなおす。思いきり顔を見上げると、眉間にシワを寄せた美貌が見下ろしていた。こんなアップで見たのは久しぶりかもしれない、とこんな時に思ってしまう自分がせつない。

 オーストリアさんは、眉間のシワを深くして、呟いた。
「……で…か」
 おもわずきょとんとする。あまりに声が低くて、聞き取れなかったから。
「なん、ですか?」
 だから聞き返してしまった。

「そんなに顔もあわせたくないほど、私を惨めだと思うのですか」

 この世の終わりみたいな悲壮な表情をさせて、絶望を歌うみたいな声色で、ひどく悲しい言葉をオーストリアさんにもう一度言わせてしまった。


 あたしははじかれたみたいに振り返った。床に座ったままのみっともない姿勢だったけど、そうしなきゃいけないと思った。
「嫌です!」

「……ハンガリー?」
 いぶかしげな表情でオーストリアさんが私を見下ろす。薄いレンズの向こうで、濃い色の瞳が瞬く。


 きちんと手入れされた鋼色の髪、ひらひらとしたフォーマルな服装、ちょっと気取ったえらそうな口元。あたしの心を捕まえた人。
 あたしの手の、届かなかった人。

「嫌です、嫌です!!」


 視界がにじんでふやけてぽとりと落ちてまたにじむ。その向こうで、オーストリアさんがこっちに手をのばしかけて、止めるのが見えた。
 はしたないと思いながらも、袖で思いきり顔をこすった。苦しそうな表情のオーストリアさんに、もう一度叫んだ。

「オーストリアさんがお嫁に行くなんて、私嫌です! 悔しいです!」


 ずずず、と思いきりはなをすする。一度こうなってしまったらもう止められない。ひく、と声が震えてまた涙が出た。

「わ、わらひ顔を洗ってひますね……っ!!」
 今、とんでもなくひどい顔をしてる自信がある。こんなの、人に見せられない。特に、特にオーストリアさんには。
 転びそうになりながら立ち上がって、扉の所に立ったままのオーストリアさんの横を通ろうと踏み出した。

「お待ちなさい」
 強い力で腕をつかまれた。涙でぐしゃぐしゃのほっぺたに手を当てられて、無理やりオーストリアさんの方を向かされる。
「お、オーストリアさんっ!! 今私ひどい顔で」
「構いません。……今あなた、何と言いました?」

 いつになく真剣な顔で真正面に見つめられて、勝手に頬が熱くなる。

「だ、だからひどい顔で……」
「その前です」

 つかまれた腕と顔の手のせいで、視線をそらす事もぐしゃぐしゃの顔を隠す事も出来ない。そんなのよりもまず、その目から視線がはずせない。どうしたって自覚してしまうのだ。あたしは、どうしようもなく彼の事が好きなんだって。

「オーストリアさんは、フランスさんの所にお嫁に行ってしまうんですよね。あたしが弱くて、オーストリアさんを支えるのに全然たりなかったからって」
「ハンガリー」

 名前を呼ばれて心臓が跳ねる。呆れたような憮然とした表情のオーストリアさんがあたしに言う。
 何を言うんだろう。最初からお前に期待なんかしてなかったって? それとも、どうしたってお前にはチャンスはないんだって? 悪い事ばかりが浮かんでくる。

 憮然としたオーストリアさんは、ため息を一つついて手を放した。
「誤解ですよ」

「誤解も何も! 結局私、オーストリアさんの大事なところ、取り返せなかったのに」
 オーストリアさんは首を振った。
「それは今は関係ありません。それから、あの男のところに嫁に行くのは私ではなく末娘のマリーです」

「……マリー姫?」
「ええ。あのネクラな鍵作りが趣味の地味男には勿体ない子ですよ。少々派手好きで……あなたのようにお転婆ですが」
 涙を拭くのも忘れて、あたしはしばしぽかんとする。そんなあたしをどう思ったのか、ポケットから布を出したオーストリアさんは、その布をあたしの顔にそっと押し当てた。

「目が腫れますよ、ハンガリー。そろそろイタリアに頼んでおいた焼き菓子が出来上がるころですし、顔を冷やすついでにお茶を入れていらっしゃい。それからお茶でも飲みながら、」
 オーストリアさんは肩をつかんであたしを引き寄せて、声のトーンをぐっと落とした。



「あなたにそんなでまかせを吹き込んだ人物について、じっくり教えてもらいましょうか」




 あたしが金縛りのような硬直からさめたのはオーストリアさんが部屋を後にしたしばらく後で、手元に残されたいい香りのするハンカチと、思い出すだけで蒸発しそうになるさっきの出来事をそっとエプロンのポッケにしまって、あたしは給湯室に向かって走り出した。


 大変だ、あたし喜びと恥ずかしさが原因で死んでしまう、最初で最後の幸せな一人になれるかもしれない。



 オーストリアさんの居心地の良いお屋敷の廊下をはしりながら空を見上げる。
 あたしの耳元に囁いた小さなふくふくしたひよこが、よろめきながら飛んで行った。




 →ハプスブルグはやっぱり書いてて楽しいですうへへ。
 うっかり出ちゃうハンガリーさんのヤンキー口調ってどんなかな〜と思いながら書いていたので一人称がなぜかあたしですが気にしないで下さい。やっちまった……!!
 長い間ほっといてた話なので最初と最後の方で文体ちょっと違います。でもまあこれはこれで……(逃


 March 24, 2007