「もう嫌いよ、あんな人」
すんすん、とはなをすする音。背中に柔らかな重みがかかり、ふと目の前がぐらりと揺らいだ。
「大嫌い。私のことなんかおかまいなしで」
ふわりと甘い香り。くしゃりとシャツの軋む音。ざわりとざわめく風がうるさい。
かきまぜられた髪を直そうと自分の額に手をあてる。血が上って相当熱い。
言葉を発しようと息を吸う小さな音がやけにはっきりと聞こえた。
色々と意識しすぎでぴりぴりする。世界が無駄に鮮やかだ。
「あんな人、大嫌い」
嫌いなんだったら、どうしてそんな服脱ぎ捨てちまわないんだよ。
「もう忘れるの。絶対、絶対よ」
忘れるんだったら、どうしてあいつの所の格好のまんまなんだよ。
小間使いの証拠のエプロンドレス、どうして握り締めてんだよ。
「あたしの事なんとも思ってないのよ。言う事聞いて当然だとばっかり思ってるの」
大事そうに膝と一緒に抱えこんで、俺の背中によりかかってんだよ。
「大嫌いよ、あんな人」
嘘をつけ。思いつく限り一番危険なとこにきて、あの色男の迎えをこっそり待ってるクセに。
あいつの敵のそばにいて、やつの顔色を伺ってるクセに。
「もう忘れるの、もう嫌いになるの。もう優しくしてもらわなくったって構わない」
「そうか」
俺は、ずっと待ってたはずなんだ。
「あんな勝手な人、もう知らない」
こいつの気持ちが揺らぐのを、ずっと待ってたはずなんだ。
少しだけ体重を前に引くと、あいつの重みがついてきた。
あぐらをかいた俺の背中に膝を抱えてよりかかって、あいつはのろけにも似た言葉を続ける。
(そんなにあいつの所が嫌なら、俺の所に来いよ)
「ああ、そうかよ」
(あんなやつ振り切って、たった一言俺に言えよ)
「何があったかなんて知らねえけど」
(「助けろ」でも「独立を手伝え」でもなんでもいい)
「泣きながらそんなこと言っても、全然説得力ねえんだよ、ばか」
「うるっさいわね。泣いてなんかないわよこのすっとこどっこい」
いいか俺、これはチャンスなんかじゃ全然ない。
こいつはただすねて見せてるだけで、あいつの事を嫌いになんかなってない。
いいか俺、こいつが俺の所に来たことに他意なんか全然ない。
だから、期待なんかするだけ無駄だ。こいつが俺の所に来たのは、俺がやつの敵だからってそれだけだ。
ああ、なんで俺だけこんなに神経を尖らせてなくちゃならないんだ。
どうせ実らない恋なのに。どうせ叶わないはずなのに。
この手をとれよ。頼むから、なあ。