ぽす、と背中に何か小さい物がぶつかった。そのぶつかった何かは、自分に体重を預けたまま腕を伸ばして自分の胸の辺りをぎゅうと抱きしめた。見覚えのある、青い袖からのぞく細い腕だ。
「に、日本っ！？ どうしたんだお前いきなり」
「……で、 すっ」
常の彼の言動からは考えられない大胆な行動に、イギリスは顔を真っ赤にして動揺した。
これは何か、あれか。それなのか。むしろどれだ。
あまりに動揺しすぎて思考が定まらなくなっているイギリスに、もう一度日本はかすれる声で呟いた。
「どう、か したのは……あなたの方ですっ」
はっとイギリスの思考が止まる。どうしようもなく震える声は、紛れもなく涙声というやつで。
「ふらふらといなくなって、こんなところで、何してるんですかっ」
「こんなところって……うわ、マジでここどこだ！？」
言われて辺りを見回せば、街道の真ん中ではなく木々に囲まれた開けた場所。
地面には石が敷き詰めてあり、古びたアジア風の（イギリスには大して中国のものと見分けがつかないが）建造物がある。
さっきまで日本と一緒に歩いていた場所とは、明らかに違う場所だ。
「ようやく気付いたんですか！？ 今の今までどうしていたんです！！」
「今の今までって、ちょっと日本、離せ！」
背中に貼り付かれたまま喋られているので、どうしても背中の温かさを気にしないではいられない。とりあえず彼を引きはがそうと腕に触れると、やけにがさがさしていた。なんだろうと目をやって、イギリスは絶句した。
「日本、お前腕傷だらけじゃないか！！」
「そんなことはどうでもいいんです！ っうわ」
どうでもいいわけあるか！ とばかりに日本を引きはがして振り向いた。少し力任せにしたせいでよろけた日本を、今度は正面から抱き止めた。
日本の目は赤かった。すり傷やきり傷の見られる頬には赤くこすった後があり、唇はぎゅっと引きむすばれている。息はすっかり上がってしまっていて、さっき見たときにはきっちり着られていた着物も、あちこちがぼろぼろになって乱れている。
腕の傷も相当なものだったが足の方はもっと酷く、明らかに転んだようなあとまであった。
「何があった？ 話してみろ」
目を合わせて問うと、反射的に日本は目をそらせた。それが説明できるのはあなただけですよ、とポツリと呟く。
「山の神に参りに来たのです。あなたを返してくださるようにと」
ここはその社ですよ。もう人が足を踏みいれなくなって久しいように見えますが。
「は？ なんでまた、そんな」
ぽかん、と口が開く。返すも何も、自分はずっと一緒に歩いていたじゃないか。そりゃあ途中で子供と話しこんで、あとから追いかけようとも思ったけれど……
そこまで考えてから、イギリスはふと黙り込んだ。後から追いかけようと、思ったけれど？
妙に荒れ果てた寺はうっそうとして、湿った空気がひやりと冷たい。
この感覚なら知っている。何か霊的なモノを含んだ森の空気だ。
「さっきまで、まだ昼だったのに」
ぽかんと上を見上げてイギリスは言った。もう月は明々と高く登り、深夜近い事を示している。
ぷい、と横を向いて、日本が恨みがましく言う。
「神に取られ、数刻をあちらで過ごすうちに何日も経っているなど良く聞く話です。それ以上に良く耳にするのが、二度と帰って来ないと言う話と、魂を取られ亡くなるもの」
引っかき傷やすり傷は、たぶん人の入らぬ森の中をめちゃくちゃに走って出来たものだろう。
どれだけの長い間、この少年は自分の事を捜したのだろうか。
自分の身が傷つくのも構わないぐらいに。
「わからないでしょう。あなたが取られて失われる事を、私がどれほど恐れたか」
その瞳がまたじわりと滲むのをイギリスは見た。……そういえば、日本がこれほどまでに取り乱すのを、イギリスはついぞ見た事が無かった。
右手を、抱え込むように小さな頭に乗せる。そのままぐしゃぐしゃと掻き回してから引き寄せた。
「俺が幽霊なんぞに取られるわけがあるかよ。俺のとこにいるやつらは皆、いたずら好きだがいいやつだぞ」
「じ、実際に消えていた方に言われても信用できるものですか！！」
ぐいと両手で胸を押して、日本はイギリスから離れようとした。頭をなでられているのも気に入らなかったらしく、ぐっと上目遣いでにらまれる。
しかし、どうやったって外側から抱きしめられているのを振り払うほどの力は彼にはない。
「それにイギリスさんは、そういった現象がお好きのようでしたから」
ようやく力が敵わないのを悟ったか、日本の手から力が抜ける。
「もしかしたらあちらの方を気にいって、もう二度と帰って来ないかとさえ思いました」
段々と力を失っていく口調は、最後には呟きのようにすらなって。
「お前と一緒に歩いている時にな、子供に袖を引かれたんだ」
イギリスは、うつむく日本の頭に向けて落とすように言った。
「で、ちょっと話の相手してやってたら、やたら喜ぶもんだから。お前が先に行っちまうの見えたけど、まあ追いかければいいかって思ってさ」
そういえば、どうして日本は止まらないんだろうとは思わなかったな。そう小さく続ける。
「まだ相手がガキだったからさ、その場にかがんで話してたんだ。そしたらいきなり目ぇふさがれて」
で、気付いたらここに立ってた。お前がぼろぼろで、夜だった。
イギリスの話を聞き終えて、日本はほうとため息を付いた。
「そう、ですか……では、別に危害を加えられたわけではないのですね？」
ようやく笑顔を見せた彼に、イギリスは逆に眉を寄せる。
「あのな、危害って点ではお前の方が酷いと思うぞ。早く帰って手当てしねえと……」
「体の傷など問題ではありません。……少々待っていて下さい。あなたを返してくださったことのお礼を言って帰りますから」
放して下さいと今度はやんわりとがめられて、イギリスはしぶしぶ手を放した。
朽ちた建物に向かう前に、日本は首だけでこちらをちょっと振り返る。
「イギリスさんのような方は珍しいですから、何かがあなたに興味を持たれたのでしょうね」
「いや、多分……それは違うと俺は思うぞ」
聞こえないとは分かりつつも、遠ざかる日本の後ろ姿にイギリスはふと呟いた。
あの人とはお友達ですか。
あの人、元気にしていますか。
あの人は今、 幸せですか。
日本に良く似た黒髪の、古い着物を着ていた子供がイギリスに尋ねたいくつかの事。
昔は良く遊んでくれたんだけど、最近構ってくれる事ができなくなったみたいだから。
そう言って浮かべた悲しげな微笑は、あどけない子供の顔には全く似合っていなかったのに。
「なあ、お前ら」
イギリスは森の中心でそっと上を見上げて呟いた。
「寂しいよな」
日本に霊的な物が見えない事は知っている。前にためしに引き合わせたが、彼には何も見えなかったのだ。
「寂しいよな、忘れられるのは」
だが、その昔の昔には、彼にもきっと見えていたのだろう。
あの子供達と一緒に、駆け回った時期があったのだろう。
応。 森がイギリスに答えるかのように、ざわりとその身を震わせる。
ただ、自分を思い出して欲しかったのに。