「アーサーさん」
「あ、ああ」


 少年はキクと名乗った。農作業に明け暮れているようには見えない儚げな容貌と英語の知識から、イギリスは学者の卵あたりだろうとあたりをつけた。そういえば、着ているものも悪くない。頭の回転も。

 とりあえずそこらを案内しろ、珍しいものとか。そう言うとキクは迷わず港を指差して、
「今このあたりで一番珍しいのはあなたがたの商船ですよ。お帰りになるならお送りします」
 と即座に返した。それじゃあ意味がねえんだよ! と怒鳴りつけてようやく、やれやれとキクは内陸の方に足を向けた。
「じゃあ、本当に少しだけですよ。このあたりでさえ異国人は珍しいのです。あなた方のことを毛嫌いしてる人もいますし」
 そう言って小さく悲しく笑む。腕をつかんでいるのは自分だったが、どうやら場を支配しているのはこの小さな少年らしかった。


「アーサーさんは、何を求めてこの地にいらしたんですか?」
 横をならんで歩きながら、キクはイギリスの顔を見上げた。

 イギリス、という国である自分だったが、その身分を知られるといろいろと厄介なことになりかねない。だからアーサーという偽名を便宜上名乗っていた。わりと長いこと使っているせいで、本名と同じぐらいに愛着があるし、呼ばれれば即座に返事ができる。

「もとめてっつーか……捕鯨のための補給と支援要請……」
 語尾を下げながら呟きつつ、キクの顔色を伺う。まずい、ついうっかり口が滑った。
「……ああ、国の使者の方ですね」
 なんて敏いやつ。イギリスは思った。どちらかと言うとこっちの方が青ざめそうだ。


「お、お前通訳の卵かなんかだろ!? もしかしたら明日会うかもしんねーぞ」
 話題を変えようと焦って、ついでにもう一つ爆弾を踏んだ。キクの顔色がさらに強張る。
「……直接会議に参加するような方、ですか」
「う……」


 ふう、とキクは一つため息を付いた。
「西洋の方の年のとりかたや歴史は知りませんから……そうですね、もしかしたらあなたの方が年上ということもあるやも知れません」
「あるやもってだからお前本当にいくつ」
「85」
「……嘘だろ」
「嘘ですが、妖怪などのたぐいにとっては珍しい数字ではないでしょうね」
 さらりと言うキクの言葉に神秘の影を見て、イギリスはおもわず年齢の話題を忘れた。


「っとキク、妖怪って何だ!?」
「最近は見えないのですが……そうですね、姿を見せない隣人のことですよ」
「妖精のことか!? ピクシーか!? それともユニコーンとかセイレーン……」

 最近めっきり憂鬱になっていたのはこれも理由の一つだった。自分の友人である人でないものと語りあえない事。そして気難しがりと言われる自分にとって人間は交流しがたい存在であったため、何と言うか、ストレスがたまっていたのだ。

 キクはやんわりとつかまれた肩の手をほどいて、そうですねえ、と辺りを見回した。
「そのあなたが言う妖精が何かは良く分かりません。が、興味はあります」
 本当か、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。その手の良きものが見えると公言したあとの反応が冷たくなったのはいつからだろうか。
 キクの反応も、他のヨーロッパ人のように冷たくなるのだろうか。

「た、大抵のやつらはつまんない話だって言うけどなっ……聞きたいってなら、話してやらんこともない」
 キクの反応が怖くておもわず顔をそらしてしまう。しかしそんな必要は無かったようで、キクはぽんと手を一つ叩いて提案した。
「ああ、だったら小腹が空きませんか。ちょっと団子が食べたいと思っていたんですけれど」
「? ……つまり、茶にしないかと言うことか?」
 ええ、おごりますよ。キクはこくりと頷いた。立ち話も何ですし、こちらのお茶がお気に召すかは分かりませんが何か飲みながらの方が話も弾むでしょう。
 こちらですね、と袖を引くキクのちょっと上気した頬をイギリスは見下ろす。

 これは、単純に好奇心だろうか、それともただの食い気だろうか。


 前者だったらいい。イギリスは思った。話を聞いたその後に、キクが自分を笑わないといい。




***



 小さな小屋に、丁度腰掛けられそうな出っ張りと、軒先の小さな屋根。出っ張りには草で編まれた敷き物がしいてあり、"ゴザと言うんですよ"と丁寧にもキクは言った。

「茶屋に来るのも久しぶりです」
 自分をその草の上に座らせてから(座り心地は悪く無かった。まあ、思ったよりは)キクも少しはなれた隣に座り、店の中に向かって何事かを国の言葉で言付けた。早くて何を言っているかはわからないが、奥からは景気のいい返事が返ってくる。

 正直、この腰掛は自分には低かったが、それを告げるとキクはむっとした顔で不機嫌そうに言った。
「そちらの足が長すぎるんですよ」
「お前らが短いんだっつの」
 からかうように言ってやれば、彼はむうと唇を尖らせた。ふいとそっぽを向いたと思ったら、無言でこちらに手を突き出した。草の敷き物が三枚ほど掴まれている。

「じゃあ、この上にでも座ってて下さい。偉そうに見えてぴったりですよ」
「……お前」
 ジト目で睨み付けると、逆に含みのある笑顔を返した。
「なんでしょうか。今まで自分がずっと謙虚に振舞っていたとでも言いたげですが」
 明らかにそうは思っていない口調に、イギリスはくわっと大口を開けて反論した。
「そんな事は言ってない!」
「ええ、まあ確かに」


 こ い つ……!! 


 ぎゅうと拳を握り締めると、力を入れすぎたかぷるぷると震えた。
 一方のキクは、もしかしたら殴られるかも、だとかそんな怯えも見せずにただ笑顔でそんな自分をみつめている。

「あ、お茶が来たみたいですよ」
 ちょっと緊張した表情を浮かべ、木を削っただけの簡素な盆を抱えて現れた店員を見とめて、キクは明るく言った。こちらの気も抜けようというものだ。

「はい、熱いですから気をつけて下さいね」
 取ってのついていない、無骨でやたら深い円柱形のコップを両手に持って、キクはこちらを振り返った。
「……随分分厚いコップだな」
「だってそうでないと熱くて持てないでしょう」
 手袋のままコップを受け取り、その中身をちらりとのぞきこむ。ゆらゆらと湯気を立てるコップの中に、なみなみと茶が注がれている。

「……緑色だな」
「茶が緑で何が悪いんですか?」

 きょとんとたずねる黒い瞳に、イギリスはいや、と返して目をそらした。
 だめだ。こいつと話すと調子が狂う。


 こいつはただのこの弱小国のガキで、ちょっと英語が喋れるがその分皮肉もしっかりきかせて来る。
 こんな口を利くのが例えば自分の船の船員だとか、あの万年頭に花の咲いている料理馬鹿だったりしたら、自分は迷わず銃を抜いているだろう。撃つにしろ撃たないにしろ。

 自分がここでこの黒髪の少年を怒鳴りつけるなり殴るなりしないのは、こいつがどう見ても幼い子供だからだ。イギリスは足を組み、ほおづえを付きながらキクの横顔をちらりと眺めた。
 丸く大きな黒目と、さらりとした黒髪。散々いじめてきた中国となんらかわりないように見えるが、表情は随分こいつの方が柔らかい。
 小さな両手に湯飲みを持って、ふうと吹きながら口にはこぶ様子はまるで可愛らしい猫舌の子供。

 こんなやつにいちいち腹を立てていたら、大人げないからだ。つまりはそういう事だ。

 その視線に気づいたのか気づかないのか、キクはこちらをちらりと見、目元だけを柔らかくほころばせた。



 そう、猫が可愛らしかったり妖精が愛しかったり、これはそんな感覚だ。

 あんまり今まで周りにいた見た目ではない。それから、自分の立場を考えずに話している久しぶりの人間であることだし。


「  さん、 アーサーさん?」

 別に、友達がいないのが寂しいだとか、わがままにつきあってもらえて嬉しいだとかそんなことは。

「ねえからなそんなこと、絶対に!」
「……何がですか?」
 見開かれた黒い瞳が瞬く。
「……いや、忘れてくれ」

 おもわず思考が口に出てしまっていた。一人で部屋にいると良くやってしまうが、人前で出てしまうとは。イギリスは顔を赤くしてうつむいた。
 そんなイギリスに、キクはため息をついて皿を差し出す。

「さっきから、お団子が届いたって呼んでたんですけれど」
 百面相してましたが、お茶が口に合いませんでしたか?
「いやいやいや! 良く分からんが妙な味だ! 苦い!」
 眉を寄せてたずねるキクに、イギリスは思いきり首を横に振って答えた。
 そのままの勢いでぐいっと一息に残りのお茶を飲みほす。気管に入ってむせこんだ。

「だから、それを口に合わないって言うんだと思いますよ」
 呆れたように、しかし笑いながらキクは呟いた。失礼しますね、と声をかけてから背中をさすった。

「……すまない」

 諦めて、ため息をついて、ようやくイギリスは謝った。




***



  「ああ、さっきのでみたらしが落っこちちゃいました」
「みたらし?」

 ようやく一心地ついてから、キクが残念そうな声を上げた。よっこらせ、と声を上げて、地面に転がった団子とやらを拾いあげる。
 キクが取り上げた二本の串には、つやつやと光る茶色のソースがたっぷりとかかっていた。ついでに、泥と砂も。何か香ばしい香りもする。

「それは、うまいのか?」
 いぶかしげにたずねると、「落とす前でしたら、とても」とシンプルな答えが帰って来た。どことなく落ち込んだような調子が混ざっていて、申し訳なくなってくる。

「もうひとつ頼みましょうか?」
「いや、いい! ……そんなにお前に負担をかけるのも、悪い」
 断ってから、呟くように言い訳を付けたした。そ、それにいやでもお前がどうしても食べたいってなら頼んでもいいんだぞ別に。
 ごにょごにょと口の中で言葉を遊ばせる自分に、キクはしょうがありませんねえと言ってふわりと笑んだ。

「それでは、みたらしだんごはまたの機会にしましょうか」
「ああ、そうしてくれ」

 ただの社交辞令なのかそれとも本気なのか。少し尋ねて見たかったが、どうしても聞く事ができなかった。あの柔らかな声で皮肉を織り交ぜて"もちろん社交辞令です"などと言われたら、多分自分は落ち込む事になるだろうから。
 なぜだかは、わからないが。

 それから、なんとか無事に皿に残っていたおはぎというやつを二人して食べた。
 やたら甘い豆が、やたらねばつく米の周りに包んであり、手づかみで食べると具合があまりよろしくない。


「ジャム付けたスコーンの、ジャムの部分持って食べてるみたいだな」
 さすがに手袋が甘ったるくなってはまずいので、手袋を右手だけはずして片手でその菓子をつまむ。
 その椅子に置かれた皮手袋をしみじみと眺めながら、キクは言った。
「そうですねえ……アーサーさんがそう思われるなら、そうなんじゃないでしょうか」


 キクは行儀悪く食べた後の手をちろりとなめてからタオルで簡単に手を拭い、それからしみじみとお茶を飲んだ。
 この甘ったるい菓子を食べた後は、確かにお茶がほしくなる。しかしながら、自分の分はさっき飲んでしまった。我慢するしかないか、とイギリスは焼けるような甘さを飲み込んだ。

「もう一杯頼みましょうか? それとも水の方がいいでしょうか」
 そこにキクが助け舟をだした。険しい顔でもしてしまっていただろうかと少し考える。
「頼む」


 たぶんこいつは気が利くんだろう。イギリスは考えた。皮肉というものは、相手の事を分かっていないと早々言えるものではない。

 店員に何やら話しかけるキクの後ろ姿をふと見やる。自分たちとは違う外見で、宗派どころか宗教すら異なっている異国の人間。
 それでも、一緒にいて別に悪い気分にはならない。

 むしろ、暖かい。


「なあ、俺には友人がいるんだ」
「はあ……それはよろしいですね」
 持ってきた二杯目のお茶を受け取りながら、キクに向かって言う。キクはなんでも無い事のようにさらりと返事を返した。
 フランスあたりならここで爆笑だ。断言できる。

「そいつ、羽根があったり鱗がはえてたり、喋る馬だったりするんだよ」
「それは始めて聞きますね。竜のようなものでしょうか」
 いや、ドラゴンは気難しいから……そこまで言って、イギリスはふっと息を呑んだ。

「お前、ドラゴン知ってるのか?」
 それはまごうことなき、あちらがわの住人。もし彼が本当にそういった類のものを見るのなら。イギリスは期待して、身を乗り出して尋ねた。

 しかし、キクは首を横に振った。小さく笑んで湯飲みの縁をすっとなでた。
「いえ、話に聞くだけです。そういうイギリスさんは会った事があるのでしょうか」
「あ、ああ……昔、何度か。誰も信じないが」
 少々上ずった声でイギリスは返した。やっぱり、そこまでは期待通りにはいかないか。内心がっかりした部分もあるが、それよりも戸惑いと嬉しさの方が勝る。

 なぜなら、これまでに一度もキクは自分を疑っていない。

 大体の人間が笑い飛ばすところで笑わない。


「信じますよ。ちゅ……兄から、竜の話は何度も聞かされましたから」
 湯飲みを一度口にはこんでから、なんでもないようにキクは言った。
「兄か」
「ええ、血は繋がってませんが、いろいろと教えて貰っていました」

 そのなんでもなさが、イギリスにはとても心地よかった。最近、妖精やドラゴンの話を誰かとした事は無かった。それも、こんな風に話す事など、滅多に無かったのだ。

「兄弟子、とかか? お前学者かなんかだろ」
「そんなものです……知識だけあっても、しょうがないのですが」
「そうか? まあ、通訳としては落第点だと思うがな」
「英語はまだ勉強中ですから」


 だから、欲しくなった。
 確かに見下している小国の住人だし、言葉も正直聞きづらい。
 良いところといえばこの零れ落ちそうなきれいな瞳ぐらいの偉そうなガキだが、それでも話し相手として手元に置いておきたくなった。

「なあ、お前……勉強したいなら、俺と一緒に国に連れて帰ってやってもいいんだぞ」

 唇から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
 もう少し言い方があったかとすぐに後悔したが、それも次のキクの一言で吹き飛んだ。

「いえ、遠慮します」


 当然のようにきっぱりと言うキクに、イギリスは思いきり面食らった。
「っておい、なんでだよ!」
 学びたい人間で、こんな閉じていた国にいて、外からの手が差し伸べられたとき食いついていかない学者がいるものか。
「なんでって……この国でするべき事があるからですよ」
 きゅーっと湯飲みをあおり、代金とともに盆の上に置く。そうしてからキクはぽんと立ちあがって、イギリスの方を振り返った。
「そのお誘いは嬉しいですし、外に興味がないわけではありません。ですが、その誘いを受けるべきは私ではないのですよ」
 イギリスはまじまじとキクの顔をみつめた。穏やかな笑みが、桜色の唇に乗せられている。

「その、それは……長旅に耐えられないぐらい歳をとっている、という意味か」
 しどろもどろに尋ねると、しばらくぽかんとしてから、キクはくすりと笑った。
「そうですね、そういう事にでもしておいて下さい」

「……もう一度訊くが、本当にお前は一体いくつなんだ?」
「山奥に住む仙人の年齢は、余裕で三桁を超えるそうですよ」


 だからお前は! 呆れた表情で言うイギリスに、キクはすました表情で返した。


***



「もう、二度と誘ってなんかやらないんだからな! 後で後悔しても遅いからな!」
「はいはい。そういうアーサーさんも、そう何度も日本に来る予定はないでしょう?」

 イギリスの乗ってきた船の横。彼が飛び下りた窓の真下。イギリスは念を押してキクに言った。
 キクは全く惜しくなさそうな表情で答え、イギリスは内心面白く無かった。

「中国にでも寄る事が会ったらまた来るさ! 老い先短いお前と違って、俺には時間があるからな!」
「お言葉ですね」
 ふん、と鼻を鳴らして横を向き、イギリスは腕を組んで言った。


 キクは夕焼けに帆を赤く染めている商船を見上げ、しみじみと言った。
「では、このあたりでお別れですね」
「ああ」

 その、キクの滑らかなほほが赤く染まるのがとても愛らしく見えて、ふとイギリスはキクの顔に手を伸ばした。
「本当にまた来る。その時はもうひとつの方の茶菓子おごってくれよ」
 ふらりと視線を彷徨わせて、キクは一歩身を引いた。イギリスの手が空しく浮く。


「いえ、"キク"はもうアーサーさんにはお会いできないと思います」

 残念ですが。そう言って微笑むキクの表情は、今までになく読めない。

「ちょ、なんでだよ!! なんだったら明日だって……」
「これから忙しくなります。アーサーさんも、道中お気をつけて下さいね」
 イギリスの言葉をさえぎり、会話を閉めに入るキク。ぺこりと頭を下げ、そのままくるりときびすを返した。


「おい、待てってば!!」
 手を伸ばして捕まえようとしたが、するりと袖が手のひらをかすめ、逃れてしまった。

 慌てて追いかけたが、すでにその人影はない。

「……嘘だろ?」
 いくら角を曲がったといえども、あの動きにくそうな装束で、自分の足を振りきれるとは思わない。
 どんなに急いだとしても、後ろ姿ぐらい、捉えられそうなものなのに。


 しばらくあちこちうろうろしてみたが、あたりが暗く沈む頃には、さすがにイギリスも諦めた。
 あの黒髪の小さな後ろ姿を、闇の中で見つけられるとは思わなかった。


 悪態が口からこぼれる。
「畜生。またの機会に、って言ったじゃねえか」


 船にもどったあと、イギリスは自分の部屋の窓までなんとかよじ登らねばならなかった。何も考えずに、二階ぐらいの高さもある自室の屋根から飛び下りたからだ。

 部屋になんとか転がり込んで大きなため息をつく頃には、イギリスの頭から明日の予定の事は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。